情報とは道具である、ということ

中東や地震の問題が立て続けに起こりましたが(そしてもちろん問題はいまも続いてもいるわけですが)、そのなかで取り沙汰されたのがTwitterです。

これらの騒動のなかで思ったのは、情報というのは道具なのだ、ということです。
これは当たり前のことかもしれませんが、自分としてはきちんと意識したのがはじめてだったので、少し詳しく書いてみたいと思います。

Twitterが活躍した理由

中東問題では、現地で人々が情報統制をかいくぐるためのツールとして活躍した感がありましたし、実際そういう側面があったと思います。

一方で地震に際しては、地震発生直後は、不通となった電話や携帯メールのかわりに相手の安否確認をTwitterで行う様子がしきりに見られました。これはまさにTwitterが役に立った例でした。

ただし、正確にはこれはTwitterという「つぶやきサービス」そのものの効用ではなく、Twitterが持つ「ユーザー数が多い」という要素が大きかったと思います。

たとえば私の場合、TwitterではなくSkypeで安否の確認がとれた知人もいました。あるいはGmailを送ってきてくれた人もいます。

これらSkypeGmailはインターネットを利用しているために不通にはならなかったわけですが、情報発信がTwitterに比べて手間がかかることや、その結果としてユーザー数が少なかったため、そこまで使われなかったのだろう、と。

極端な例ですが、もしもSkypeTwitterなみのユーザー数を持っており、なおかつTwitterというサービスがなかったならば、今回の地震ではSkype通話やSkypeチャットが安否確認のためのツールとして活躍したかもしれません。あるいはfacebookでもよかったかもしれません。

その意味では、Twitterは「つぶやきサービスだから」活躍したわけではなく、たんに「日本におけるユーザー数の広がり具合がもっとも大きいウェブサービスだったから」活躍した、と言えます。

情報がいっぱいあるのになぜ混乱するのか

しかし活躍の一方で、Twitterはデマ拡散ツールという側面も持ちました。

根拠のない情報がいくつも飛びかったりして、私の周りでもそれらに翻弄される人がたくさんいました。
無論、私自身もまったく影響を受けなかった、とは言えません。とはいえ、もともと関西に住んでいることもあり、やや冷静に事態を受け止められたのは確かです。

しかしTwitter上の混乱を見ながら疑問だったのは、「なぜこの情報が溢れた時代に、ここまで混乱が起こるのか」ということでした。
もちろん、情報が溢れたから混乱するのだ、と言ってしまえばそれで終わりなのですが、それだといまいち納得がいかないのです。

というのも、最近キュレーションだなんだと騒がれてはいますが、とにかくWebというのは原則としては情報を増殖・拡散するという性質を持っており、これまではそれが是だとされてきたわけです。

情報というのは、増えれば増えるほどに、そのなかから良いものが生まれるはずだ、というのがWebへの共通認識でした(と私は感じていました)。かりにそのなかに悪性の情報が混じっていたとしても、数の力で淘汰されることで、最終的には良性の情報のみが残る、という感覚がありました。

しかし、それは簡単に崩壊してしまいました。

情報は価値ある宝物、ではない

で、そうなった原因はなんだろう、と考えていてひとつ思い浮かんだことがありました。

それは、私たちは情報を神聖視しすぎではないか、ということです。
神聖視、という言い方は語弊を招くかもしれませんが、言い換えると「情報そのものに基本的な価値を認めすぎではないか」と思ったのです。

情報というのは、(悪意があって発せられたものでないかぎり)どんなに微小であっても価値を有しており、それは集めるのは悪いことではない、と思われがちです。

けれど、情報というのはけっして宝物などではなくて、ましてや役に立たないガラクタでさえなく、ときには毒だったり凶器だったりするのではないか。
情報を集めるという行為そのものが、(心理的に負担を感じるといったこと以上に)判断を見失うというリスクを備えたものではないか、そんなことを考えたわけです。

そこまで考えて、ロケットマンという漫画をふと思い出しました。
これはQ.E.Dという推理漫画を描いている加藤元浩さんによる作品なのですが、この作品のなかで情報を扱う秘密結社(?)の総帥みたいな女性が言うわけです。

「情報とは砂漠の砂のようなものだ。いくら集めてもきりがない。しかし、自分はとにかくこれだけたくさん集めたから大丈夫だろう、と人は思ってしまう」と。

これは情報=価値、という考え方を見事に言い表しているのではないかと思います。

たとえば、今回の地震では、検索エンジンはもちろん、2chなどの各板を見回ってあらゆる情報をかき集めた人もいると思います。ていうか、私です、それは。
これはまさに、情報は少なくとも集めて損はない、と思っている人間の典型的な行動です。

Twitterでデマに翻弄された人々は、その点では少し違います。というのも、Twitterの場合は、意図してどんどん情報を集めるのではなく、TL上に勝手に情報が流れ込んでくるからです。

しかし、その流れてきた情報を知った=自分は有益な情報を得た、と考えてしまう根底には、情報=価値のあるもの、という考え方が共通しているように思います。

ですが、この情報=価値という前提がそもそも間違っているかもしれません。
砂漠の砂をかき集めるより、遠くから砂漠の全景を見渡すほうが、より良い判断ができることもあります。こう言ってしまうと、あまりに当たり前のことなのですが。

考えてみれば情報というのは、絶対に事実ではありえません。
どんな文章・音声・映像であっても、その情報を発信した人や媒介した人の意志というものを0%にすることはできません。

情報とは、事実ではなく、事実を伝えるための道具、なわけです。
事実と、事実を伝えるための物理的な手段であるTVやネットと、そのさらに中間にあるものが情報なわけです。

そう考えると、情報とは善意であれ悪意であれ人の意志を介在せずには存在しないものだと言えます。だから、よくある包丁のたとえのように、使う人の意志次第で有用にもなれば凶器にもなるわけです。

しかも包丁は、扱い方を誤れば、料理しようとしているときであっても手を傷つけます。同じように情報も、善意を目的としたものであっても人を傷つけます。
情報が道具である、とはそういうことです。

必ずしも情報とは集めるほうが良いものではない。
それはあくまでも道具であり、情報を得るときには細心の注意を払い、心の準備をして、慎重に触れなければならない。

そんな当たり前のことを、あらためて考えてました。
なお、勢い重視で書いてますので、こまごましたところで論理が破綻してたらすみません。
とにかく、情報とは道具だなー、と思ったとそれだけの話なのですが。